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川本眼科だより

川本眼科だより 76差別語追放の是非 2006年6月30日

「めくら」という言葉はほとんど使われなくなりました。マスコミや出版業界が使用を制限している"差別語"だからです。
 
確かに、言葉が人を傷つけることはあります。使う側が無意識であっても、当事者にとっては心を針で刺されるような痛みを感ずることがあります。ですから、そういう言葉を使うことをできるだけ避けるのは当然です。
 
しかし、言葉には歴史があります。長年使われてきた表現をすべて葬り去るという考え方には同意できません。現状は行き過ぎだと感じます。
 
差別語の問題はタブー視され、そもそも公的な場で議論すること自体が避けられているのも大きな問題です。

差別語

めくら、おし、つんぼ、白痴、気違い、・・・これらの言葉は、しばしば人を不快にさせます。これらの言葉が人を見下し、ののしり、差別することに使われてきたことは間違いありません。
 
できればこういう言葉を人に対して使わないようにしようという考え方には基本的に賛成です。
 
でも、言葉はどんな人がどんな意図で使ったかにより意味が変わります。普通は差別語とされている言葉でも、差別的な意図が全くない学術的な意味に使われることもあります。逆に、言葉だけを換えても、もともとの差別意識がなくならない限り、言い換えた言葉にまた悪いイメージが伴うようになるだけで、問題は解決しません。 
 
マスコミや出版業界は1970年代に差別語リストを作り、徹底的に排除しました。いまや、少なくとも大手出版社で差別語を含んだ本の出版はできないほどです。でも、これは事実上の検閲で、憲法違反の疑いが濃厚です。
 
また、古い映画などで差別語が音声上消されていることもあります。消してしまうと意味が通じず、作品としても興ざめです。最初に「制作年代が古いため不適当な表現が使われている」旨のお断りをすればすむ話だと思うのですが。

視覚障害者に言い換え

今日では「めくら」という言葉はまず使われません。「盲人」ならよいとされていましたが、最近ではそれも避けて「視覚障害者」が最も一般的な用語です。そのほか「目の見えない人」「目の不自由な人」「失明者」などと言い換えられています。
 
言い換えが可能なら問題はありません。しかしながら、言い換えが困難なこともあります。特に長年使われてきた慣用表現を言い換えると細かいニュアンスが変わってしまいます。

「めくら」がつけば全部ダメ?

めくらという言葉を使った慣用表現はたくさんあります。
 
めくらめっぽう、明きめくら、めくら撃ち、めくら蛇に怖じず・・・こういう言葉は新聞にもテレビにも出てこなくなりました。そのため、若い世代には言葉自体が伝えられません。これらの言葉はいずれ死語になるのでしょう。時代の要請で仕方がないことなのでしょうが、私は、歴史のある言葉が失われ、これらの言葉が持っていた細かなニュアンスが次の時代には伝えられなくなることを残念に思っています。
 
「盲」という言葉も最近は避けられるようになっています。盲の訓読みは「めくら」だからです。当用漢字音訓表からはこの訓が削除されましたが辞書から消すことはできません。
 
「盲」がダメとなると、盲目も盲人も盲学校も色盲も文盲も使えなくなります。「群盲象を撫でる」という含蓄に富んだ表現も禁止です。
 
私たちの文化は視覚障害を一字で表す表現方法を持っているのに、わざわざその方法を捨て去らなければならないのでしょうか?

もちろん、それだけの犠牲を払ってもよいという考え方もあるでしょう。しかし、違う考え方もあります。私は犠牲が大きすぎると思います。問題は、差別語の問題がタブー化して議論さえ許されないことです。

ブラインドも啓蒙も差別語?

驚いたことに、「ブラインド」という外来語でさえも「めくら」を連想させるからダメなのだそうです。コンピュータのキーボードを見ずに打つことを以前は「ブラインドタッチ」と呼んでいました。この言葉は和製英語ですが、広く使われていました。ところが誰かがブラインドなどというのは差別的だと言い出して、結局「タッチメソッド」と言い換えられました。そのうちに、日よけのブラインドもダメということになるのでしょうか? こちらは由緒正しい英語ですが・・・
 
「啓蒙」も差別語だそうです。「めしい(=盲目)をひらく」という意味で、「めしい」が差別語だからダメなのだそうです。
 
さすがにここまで来ると私はもはやついていけません。ブラインドや啓蒙という言葉を使うとき、視覚障害者に対する差別意識など考えられません。明らかに行き過ぎでしょう。

言葉狩りにならないように

差別語追放運動は、障害者・弱者への偏見を是正することに一定の成果を挙げました。差別や偏見を覆すには、ときに過激な手段が必要な場合があり、この運動が一種の検閲となってしまったことも必要悪だった面があります。
 
一方で、この運動にはマイナスの側面があり、既にかなりの弊害が出ていることも事実です。過剰な自主規制の結果、言論の自由を侵害し、「言葉狩り」と言われるような状況を招いてしまっているのです。
 
大多数の人々が一致して不快感を感じるなら、差別語を排除するのはやむを得ないことかも知れません。しかし、ごく一部の人が問題にするだけなら、言葉に対してなるべく寛容でありたいと思います。
 
なんでもかんでも差別語だとして言葉狩りをすることに、私は反対です。

2006.6