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川本眼科だより

川本眼科だより 97割り箸事件の判決 2008年3月31日

「割り箸事件」の民事裁判の判決が2月12日にありました。医師の過失は否定され、損害賠償請求は棄却されました。刑事裁判でも一審で無罪となっています。おそらく裁判は上級審でまだ争われることでしょう。
 
私はこの事件で医師が悪者にされ、実名報道でマスコミから袋だたきにあったことに胸を痛めてきましたから、正直ほっとしています。
 
ただ、この事件により若い医師の多くが救急を忌避するようになり、救急における医師不足は深刻です。後遺症は今後も残ることでしょう。

割り箸事件とは

今から8年半前、4歳の保育園児が綿アメを食べながら歩いていて、転んだ拍子に割り箸をのどに突き刺してしまうという事件がおきました。

杏林大学の救命救急センターに搬送され、耳鼻科の医師が診察し、のどの傷の処置だけして帰宅させました。ところが、実際にはのどの奥に割り箸が深々と刺さっていて小脳にまで達していたのです。園児は翌朝死亡しました。

偶然が積み重なった不幸なできごとでした。脳の下には頭蓋底という硬い骨があるので通常割り箸が突き刺さるなんてありえないことなのに、血管が通る小さな穴にたまたま刺さってしまったのです。しかも割り箸は外からは見えませんでした。

両親は子供の死に納得できず、救急の耳鼻科医に責任があるとして民事裁判をおこしました。さらに、東京地検が医師を業務上過失致死罪で起訴しました。

感情論の危険性

割り箸事件を知って、誰もが抱くのは「死んだ園児はかわいそう」という気持ちでしょう。私も本当にかわいそうだと思います。将来への夢も希望も奪われてしまった4歳児に涙しない人はいないでしょう。

ただ、だからと言って、その気持ちを救急の医師にぶつけるというのはどんなものでしょうか。どんなことでも誰かのせいにしないと気が済まない現代日本の社会風潮のために、結果が悪ければ医師はたちまち悪者にされてしまいます。

両親が納得できないのは仕方ないでしょう。愛するわが子を突然失ったのですから、子供の死を簡単には受容できるはずがありません。

けれども、割り箸が脳に突き刺さったのは医師のせいではないし、検証により医師がそんな事態を想像するのは無理だったことがわかっていますし、たとえそれがわかって入院させても救命することは不可能だったと考えられています。

事件の経緯や問題点を細かく知らない人たちが、「とにかく人が死んだんだからヤブ医者に違いない」みたいな大ざっぱで感情的な議論で性急に医師を断罪したのは許されることだったでしょうか。

マスコミの責任

マスコミの責任も大きいと言わざるを得ません。

当時、マスコミはこの事件を連日報道し、医師は園児を殺した極悪人としてヤリ玉に挙げられました。マスコミ上では「簡単なことに想像が及ばないバカ医者」という扱いでした。

判決が出た今、冷静な検証なしに過剰に国民の感情を煽るような報道をしたことに対し、反省やお詫びの言葉があってしかるべきでしょう。

しかし、あれほどの大報道をしながら、自分たちの過去の報道に都合が悪い判決が出ると、マスコミは目立たないよう、社会面の隅にひっそりと小さな記事を載せただけでした。自分たちの責任にはほおかむりするつもりのようです。

医師の救急離れ

この事件で耳鼻科の医師が起訴されたとき、多くの医師が自問しました。「はたして、これと同じ事態に出くわした時に、自分は結果論で語られている検査や処置を全部やっただろうか」

ほとんどの医師にとって答はノーでした。ということは、運不運だけの問題で、何か珍しい事故に遭遇したら自分も逮捕・起訴されかねないということになります。

そう考えた若い医師は多かったに違いありません。救急部門を目指す医師は減ってしまい、現在救急は深刻な医師不足に困っています。

積極的な医療に関わるほど刑事処罰のリスクが高くなるなら、医師は萎縮してしまい、自己保身に走ることになります。それは国民の健康を守ることに反し、大変困った事態です。

教訓を未来に活かすには

このような事故や事件がおきたとき、詳しく検証しもっと何かできたのではないかと反省することは重要です。同じような事例に遭遇したときにどういう検査や処置をすべきかよく考え、次の医療に活かすわけです。医学はそうやって進歩してきたのです。
 
事故の教訓を活かすにはどうしたらいいでしょうか? 少なくとも、復讐心に燃えて事故にかかわった医師を捕まえて刑務所送りにすることではありません。
 
そんなことをすれば、真実はますます遠くなります。刑事被告人には黙秘権があり、裁判での防御権があって、自分に不利なことは話さなくてよいのですから。真実を求めて裁判をおこすのでしょうが、実際には法廷テクニックの優劣を競い合うだけになってしまうことが多いようです。
 
司法の場ではなく、学会ですべての事実を明らかにし、討論し、また論文として公表することこそ、教訓を未来に活かす道だと信じます。

2008.3