川本眼科

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院長のつぶやき

院長のつぶやき網膜色素変性症と難病医療費助成

難病医療費助成制度は、難病を患う人の医療費負担を軽減する制度だ。
治癒する見込みのない難病では、医療費負担が重い。
何年も、何十年も、病医院通いが続き、終わりがない。

この制度では、医療費負担が3割から2割に引き下げられる。
また、所得に応じて、自己負担上限額が設定される。
要するに、医療費を少し安くしますよ、という制度で、無料にはならない。
無料でなくても、安くなるのは、ありがたい。

眼科でこの制度の対象になるのは「網膜色素変性症」が圧倒的に多い。
緑内障、糖尿病網膜症と並び、日本人の3大失明原因の1つになっている。
昔から指定難病として取り扱われてきた。

—-

難病医療費助成制度は対象となる疾患を増やしてきた。
2015年には110疾患から306疾患まで拡大した。
福祉が充実するのは良いことだ。

だが、対象疾患を増やすのと引き替えに「重症度分類」が導入されていた。
このことはつい最近知った。
今までは、診断が確定すれば助成が受けられた。
これからは、病状が一定以上重症でなければ助成されない。

良いほうの眼で判断することになっているので、
片目が失明寸前で、もう一方の眼にも発症しているような場合でも、
対象外にされてしまうことがある。

最近、当然該当するだろうと思っていた患者さんが、対象外になってしまった。

困ったことに、今まで助成を受けていたのに、
基準の変更が原因で助成が受けられなくなる人もいる。

—-

人口の高齢化に伴って医療費が膨張していることは知っている。
医療費抑制が必要なことも理解している。
(だからといって厚労省のやり方に全面的に賛成はできないが)

しかし、網膜色素変性症は進行性の病気でだんだん悪化していく。
軽症でも、定期的な通院は必要だし、検査もしなければならない。
重症度分類で助成対象に該当する場合、しない場合を比較しても、
通院回数も、診療に必要な医療費の額にも、大して違いはない。
助成するかしないか差をつける合理的理由は見当たらない。

一生病気と闘わなければならない人が、
指定難病の対象疾患と診断されながら、
一定以上の重症度に達するまで助成を受けられないのは、
かなり過酷な制度設計だと思う。

(2017. 11.12)

院長のつぶやき「異常」「障害」を「多様性」に置き換える弊害

「色覚異常」から「色覚多様性」に用語変更する問題の続き。

「多様性」という言葉は「生物多様性」「人種的多様性」のように使われる。
いろいろな種類があるよ、いろいろなグループがあるよ、という意味だ。
そして、そこにはそれぞれのグループを比較して優劣をつけるという意識はない。

それに対し、「異常」「障害」は「正常」の存在が前提になっている。
そして、「正常」に比べ、困った状態、不自由な状態と扱われている。
言葉自体に優劣の意識が入り込み、差別につながりやすい。

それゆえ言葉を言い換えよう、というわけだ。

しかし、そういう考え方なら、色覚に限らずあらゆる場面で
「異常」「障害」という用語は排除されるべきだということになる。
身体障害は身体多様性に、視覚障害は視覚多様性に、聴覚障害は聴覚多様性に、
それぞれ言い換えるべきだということになる。
実際に、似たような言い換えは歴史をひもとけばいくらでもあった。

もし、それが実現したら何が起こるか。
あら不思議、今までニュートラルな意味合いだった「多様性」という用語に
優劣の意識、不自由な状態という意識が既に芽生えてしまう。

「便所」を「化粧室」と言い換えても、内実が変わらなければ、
「化粧室」にも「臭い」「汚い」というマイナスイメージが付与されるだけだ。
「雪隠」「ご不浄」「お手洗い」など、いくら言い換えても同じである。
今、「トイレ」に悪いイメージが少ないのは言い換えが成功したからではない。
トイレ自体が昔に比べて格段に清潔で快適になったからだ。

色覚の場合はどうか。
人間にはふつう色覚センサーが3種類ある。
3種類とも十分機能している場合が正常3色覚だ。
1種類しか機能していなければ1色覚、
2種類しか機能していなければ2色覚、
3種類のうち働きが悪いセンサーがあれば異常3色覚。
95%の人にはあるセンサーが働いていないわけだ。

当然、色覚を識別する能力は悪い。当然だ。
それを「異常」「障害」と呼ぶのは自然だと思う。
「多様性」と呼ぶのは無理がある。

異常や障害があっても、社会が受け入れる。
障害を気にしなくてよいバリアフリーの社会を目指す。
異常や障害の有無で人間の優劣を判断しない。
そのことで差別しない。
それは当たり前のことだ。

それは、言葉を隠すことでは解決しない。
黒人差別をなくすのは、肌を白く見せることではないはずだ。
かつて米国ではBlackをColoredと言い換えた。
でも、そういうことでは差別は解消しなかった。
むしろ、今黒人はColoredなる用語は拒否していると聞く。

色覚異常への差別や偏見をなくすのは地道な意識改革しかない。
用語の変更は問題を隠そうとする姑息な手段だと私は思う。

追記:「障害」→「障碍」に戻そうとする動きは知っている。
   碍の字が当用漢字になれば私もそうする。
   ただ、この言葉が差別的というのは言いがかりだと思う。

(2017.10.29)

院長のつぶやき色覚多様性?

本日の日本経済新聞によると、日本遺伝学会は
「色覚異常」を「色覚多様性」と言い換えることを決めたそうだ。

新聞記事を読むまで、そんなことは知らなかった。
そして、記事では「色覚異常」は過去の名称だと断定している。

これは、事実に反する。
私の知る限り、日本眼科学会、日本小児眼科学会などはそういう決定をしていない。
今でも「色覚異常」が眼科用語集に載っている公式用語である。

しばらく前に、用語の改訂が行われた。
「第1色盲」→「1型2色覚」
「第2色弱」→「2型異常3色覚」
など、「色盲」や「色弱」という用語は撤廃された。

しかし、「色覚異常」という総称自体は、既に広く普及しており、
この名称を変更することは混乱を招くとして、変更が見送られた経緯がある。

同じ疾患について別名が増えるのは、望ましいことではない。
学会ごとに違う名称というのも困る。
歴史的経緯で1つの疾患に複数の名称がつくことはありうる。
それを統一しようとすると大変な労力が要る。
せっかく統一しているのに、逆行させるのはいかがなものか。

名称を変更するなら、学会同士で意思疎通を図って、統一して変更すべきだ。
日本医師会が音頭を取って「痴呆症」→「認知症」と変更した成功例もある。
私は多数派が「色覚多様性」を推すなら反対はしない。変更に従う。
でも、まだそういう意見集約自体がなされていないではないか。

恐らく、人権擁護派を気取った人たちのフライングなのだろう。
最も影響を受ける眼科医の意向を無視した用語変更などありえない。
自分たちだけよかれと思ってもダメ。他人の意見もよく聞かないと。、

主張には理解できる点もあるが、マイナス面を軽視しすぎている。
単純に、過去の論文を調べることだけ考えても、用語は同じ方が良い。

私自身は「色覚異常」という用語にさほど差別的な意味合いはないと思う。
「異常」という言葉への過剰反応ではないか。
言葉狩りはあまり生産的だとは思えない。
用語だけ変更しても、そこにまた色が付くこともよく経験する。
「メタボ」が「デブ」の代名詞となってしまったように。

私は今のまま、用語を変更する必要はないと思う。

(2017.10.26)

院長のつぶやき低矯正メガネは近視を進行させる?

過矯正メガネ(度が強すぎるメガネ)は近視を進行させる。
このことは従来から言われてきた。実験的証明もある。

そこで、完全矯正メガネか低矯正メガネを処方するのが一般的だった。
低矯正メガネとは、度が弱く、かけてもまだ近視が残るメガネをいう。
完全矯正メガネは、近視が全く残らない、ピッタリのメガネをいう。

小学生~中学生くらいでは一般に近視化しやすい。
ある程度以上近視になれば、黒板に書いた文字が見えづらくなる。
よく見るためにはメガネが必要になる。

従来、過矯正を恐れ、低矯正メガネにするほうが安全と信じられてきた。
しかし、最近の報告では、低矯正メガネもかえって近視を進行させるそうだ。
これは、一般的にはかなり驚きなのではないか。
「近視を進行させたくないから弱くして下さい」という親は多い。
それが実は逆効果だったなんて、びっくりだ。

「ぼやけた見え方」は過矯正でも低矯正でも近視を進行させるらしい。
近視進行抑制には、くっきりはっきり見えているのが一番ということ。

まあ、それでも、過矯正よりは低矯正のほうがましだろう。
若干の低矯正は、害が少ないと思う。
完全矯正にするつもりが、実は過矯正になってしまう危険性はある。
視力が十分出る範囲で少し低矯正気味にしておくのは問題ないと思う。

問題は、あまりに度が弱すぎるのはダメだということ。
おおざっぱに言ってメガネ視力で0.7~1.0くらいならOK。
どちらかというと1.0に近いほうが良さそうだ。

(2017.10.09)

院長のつぶやきスマホとカメラ

大学時代、一応写真部に所属していた。
暗室で引き伸ばしなんかもやった。
結構思い一眼レフと交換レンズを持ち歩いた。
旅行にもカメラバッグを持参した。

卒業してからは、写真を取ることは激減した。
時代も、フィルムからデジタルへと大きく動いた。
デジタル一眼レフも3機種くらい買い替えたけれど、
結局ほとんど出番がなかった。

デカいカメラは荷物になるのだ。
コンパクト・デジタルカメラでそこそこの写真は撮れる。
別にそんな芸術写真を撮るわけでもない。
多くは家族や友人との写真なのだから、高性能は要らない。

それでも、デジカメはいつも持ち歩いていた。
さほど撮らなくても、なんとなく持って行く。
たまには役に立つこともあるから。

最近になって、コンパクト・デジカメの出番も減ってきた。
スマホで済ませてしまうのだ。

もちろん、デジカメのほうが性能は圧倒的に良い。
ズーム機能はデジカメならばこそだ。
引き伸ばせば、画質には格段の差がある。

だが・・・
大きく引き伸ばすことをしなくなった。
プリントすることすら減った。
(撮るだけ撮ってそのままにしてしまう)
写真は手近なスマホで見ることが多い。
それなら、最初からスマホで撮ったほうが楽だ。
パソコンで面倒くさい作業をしなくてすむ。

どうせスマホで見るならそれほど高画質でなくてよい。
スマホなら、写真の送信や転送も楽だ。
一連の写真をアルバムにするなんて機能もあって便利だ。

要するに、画質で妥協できれば、スマホで取ったほうが
圧倒的に便利だし、使い勝手が良いのだ。

世の中の人がコンパクト・デジカメを使わなくなっている。
カメラは全然売れなくなっているそうだ。

最近は、私も、カメラを持たないことが増えた。
スマホだけで済むことも多いから。
元写真部員としては情けない。堕落かな・・・
でも、これも時代の流れだと思う。

(2017. 9.24)

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